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青森ヒバのルーツ


約百万年前ごろ、現在の「青森ヒバ」の祖先が出現したといわれています。それを裏付ける化石は見つかっていませんが、人類が石やりなどを使って獣を追っていた、後期旧石器時代に、うっそうと茂る森林の構成樹種として姿を現していたことは科学的なデータから確かめられています。植物生態学者の山中三男教授が東北大学に在職中、青森県下北郡東通村尻屋の泥炭地から約二万五千年前にさかのぼるヒノキ科の花粉(化石)を見つけています。そして他の樹種の花粉量が時代の変遷によって大きく変化し同地点での栄枯盛衰のカーブをはっきり描き出しているのに対し、そのヒノキ科の植物の花粉は約二万五千年前から現在に近い表層まで花粉を連綿と散らしていたことがわかりました。現在は生えていませんが、「現在のヒバの分布状況から考えると、このヒノキ科の花粉はヒバに由来している」と山中教授はみています。

「ヒバ」は、大きく区分すると北方型と南方型に分れます。
「青森ヒバ」は北方型で学名(和名)を「ヒノキアスナロ」といい、本州中部以西にある南方型を「アスナロ」といいます。「青森ヒバ」は「アスナロ」に比べ蓄積も豊富で材質的にも優れており、古くから社寺仏閣、城の築材として珍重されてきました。



和名で「アスナロ」と呼ばれる以前、古い時代は「阿須桧(アスヒ)」という名がでてきます。さらに古い時代には「アテ」といわれ「アテヒ」がなまって「アスヒ」になったのではないかといわれています。「アテ」は古代語では貴いという意味で、「アテヒ」とは「貴いひのき」ということになります。
どうして「ヒバ」と呼ばれるようになったのか、はっきりしませんが、津軽藩や南部藩の古文書によると、「檜」と記され、木曽地方の檜は「上方檜(かみがたひのき)」と区別していました。
一部、「檜葉(ヒバ)」「草槇(クサマキ)」の呼び名も出てきています。また、宝暦七年(1757年)松平秀雪の吉蘇志の中の木曽五木の「アスナロ」の別名として「ヒバ」をあげ、嘉永七年(1854年)冨田礼彦の取材した飛騨地方の運材図会に「櫓(ヒバ)」と定められています。現在、森林管理局にある、明治から大正にかけての文書には「羅漢柏」とあり、「ヒバ」と読ませたようですが、非常に不便で困ったようです。
そのかわり、東京で「櫓」の字が通用語化されていったといいます。



鳥取大学の橋詰隼人氏の論文「ヒノキアスナロの花粉の形成と発育」によると、ヒバが花粉のもとを作る体内作業を始めるのが11月。それから厳しい寒さの中で、三〜四ヶ月という長い時間をかけて次の命の基礎づくりを行います。そして、雪まだ深い厳寒期に開花し、淡黄色の花粉を散らして交配します。
この期間が十五日ぐらい(ヒノキは約二十五日)と短いのは、悪条件の中で少しでも、良い環境の時を逃さずに、短期間で性の営みを完了させるためです。これは長い氷河時代を生きぬいてきた「ヒバの知恵」なのかもしれません。
受精した雌花は球果となり、十月頃に球果が開いて種子は地面に落ち、翌年春、稚樹が誕生します。陽が入らない森の中で、稚樹は成長しないまま、じっと生き続けます。他の種類の樹木はそうした環境の申ではすぐに死んでしまいますが、ヒバは、何十年も環境が好転するのを待つのです。記録によると、稚樹のまま百年生きたという例もあるそうです。
そして、空をおおっていた大木が倒れて、陽の光を浴びることができた幸運なヒバの椎樹だけが、ぐんぐん成長を始めます。ヒバは百年で青年期となり、老年期が二百五、六十年。寿命は三百年といわれていますが、下北半島の猿ケ森の埋没林のヒバは、六百年の樹齢を数えるものもあります。


「木曽ヒノキ」「天然秋田スギ」と並んで、「青森ヒバ」は日本三大美林の一つに数えられています。しかも「青森ヒバ」の蓄積量は、木曽ヒノキの約三倍、天然秋田スギの約七倍もあり、将来とも安定して供給できる建材です。成木になるまでに長い年月がかかる「青森ヒバ」が、現在も美林として残っているのは、藩政時代からヒバ山をきびしく守ってきたためです。ヒバの伐採は津軽藩、南部藩とも、藩の管理下におかれ、伐採後は「留山(とめやま)」として入山を禁止するなどの掟が設けられて保護されてきました。

青森県木材協同組合
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