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青森ヒバの名称


「青森ヒバ」の名称

 ヒバは、ヒノキ科・ヒノキ亜科でアスナロ属アスナロという一属一種の日本特産樹種です。ヒバには南方型と北方型があり、北方型の青森ヒバはその変種の「ヒノキアスナロ」と位置付けられており、名前が決まるまで紆余曲折がありました。

(1)学名
(2)「ヒバ」の和名について
(3)ベイヒバと青森ヒバの違い


(1)学名
 
「青森ヒバ」の学名は、以下の変遷を経て、現在に至っています。
1781年 Thujopsis doiabrata
1842年 Thujopsis doiabrata.S.etZ.
1901年 Thujopsis doiabrata.S.et Z. var hondai Makino
 オランダ医師ツェンペリーが日本から持ち帰ったのを,リンネが,ヒノキ科コノテガシワの一種(ツヤ・ドラプラータ)として命名したが(1781年・天明元),その後に来日したシーボルトが、日本から持ち帰ったものを,ツッカーニとの共同研究により,ヒノキ科アスナロ属として新たに独立(ツヨプシス・ドラプラータ,シーボルト・エト・ツッカリーニ)させました。(1842年・天保13)
 明治に入り,本多静六(日本で最初の林学博士)が,従来のアスナロと青森県のアスナロとの間に違いがあることを発見し,牧野富太郎がアスナロ属の中にアスナロの一変種ヒノキアスナロ(ツヨプシス・ドラプラータ,シーボルト・エト・ツッカリーニ ヴァル・ホンダイ・マキノ)として命名し,学術的に初めてその名称が付与され,正式に認知されました。(1901年・明治34)



(2)「ヒバ」の和名について
 
 青森ヒバの和名は,40種類以上もあるといわれておりますが,そのうち主に生育・生産の対象となっている北海道桧山地方,青森県全域,岩手県早池峰山,石川県能登地方,長野県木曽地域,愛知県飛騨地区の名称は,ヒノキ,アスナロ,アスヒ,ヒバ,アテ,クサマキ,ラカンハクなどと呼ばれておりました。

1) ヒノキ
 青森県では,藩政時代から「ヒノキ」が主流で,「檜葉」や部材としての「草槇板」の名称も使われていましたが,明治維新により国有林編入となり,首都圏の市場に出荷するようになった1890年(明治23)ごろ,一時「青森檜」の名称で売り出したことがあったものの,ヒノキとの混同を避けることや,統計上区別する必要が生じ,「ヒノキ」の名称は,公的には使用されなくなりました。

2) アスナロ
 学名として,ヒノキ科アスナロ属アスナロと公認されています。語源は,枕草子(清少納言 平安時代の女流随筆家)の春曙抄三十六に「枝ざしなどのいといと手触れにくげに,あらあらしけれども,何の心ありてあすはひのき(明日は檜)とつけけむ,あぢなきかねごとなりや,明日は桧にて,世俗にアスナラウという木なり」(北村李吟 訳・1674・延宝2年),和漢三才図絵15(寺島良安著 1712・正徳2年)に「阿須檜又の名を阿須奈呂といふ」,日本植物誌(ツュンペリー著 1784・天明4年)には日本名「アスナロ」,泰西本草名蔬(伊藤圭介著 1829・文政12年)は,小欄に日本名「アスナロ」とあり,日本植物誌(シートボルト・ツッカリーニ共著 1835年・天保6年)において,ヒノキ科アスナロ属として独立されました。
 青森県のヒバについては,本多静六(日本で最初の林学博士)が従来のアスナロとの違いを発見し,牧野富太郎によってアスナロ属の一変種としてヒノキアスナロと命名されました。(1901年・明治34)

3) アスヒ
 木曽地方で,古くから使用されていた名称で,語源は,枕草子(清少納言 平安時代の女流随筆家)の春曙章の一説に「枝ざしなどのいといと手触れにくげに,あらあらしけれども,何の心ありてあすはひのき(明日は桧)とつけけむ,あぢなきかねごとなりや」と云われ,日本林政史資料(名古屋藩)によると「あ素ひ」(1690・元禄3)の記述があり,「明檜」(1694・元禄7)となって記述されている。
 なお,和漢三才図絵15(寺島良安著 1712・正徳2年)に,「桧の一種なり。阿須檜といふ。桧に似れど木心マキに似たり。」,日本植物誌(シートボルト・ツッカリーニ共著 1835・天保6年)「アスヒ」と記述されております。

4) ヒ バ
 日本林制史料によると,表木曽(名古屋藩)の明日は檜になろうという「明檜」に対し,裏木曽(飛騨郡代)は,木を屠ふるという「木屠(※)」の字が使われております。
 古蘇志(松平秀雪 1757・宝暦7年)の中に「木曽の五木」のアスナロの別名として「ヒバ」とあり,日本植物誌(シートボルト・ツッカリーニ共著 1835・天保6年)に「日本語でヒバと呼んでいる」とシーボルトが解説されております。また,木曽式伐木運材図絵(富田禮彦著 1853・嘉永6年)にも「木屠(※)」と記述されております。
 日本林制史料によると,名古屋藩は一貫して「アスヒ」であるが,飛騨郡代は「檜葉,ひば」から「木屠(※)」となり,弘前藩は,1689年(享保3)の家作制限に「檜葉」が使用されていることから,この資料で見る限りは津軽藩の方が飛騨郡代より3年も早く使用されていたことになる。盛岡藩には1859年(安政6)「木屠(※)」の記述が見られる。


5) ア テ
 造林学各論(1898・明治31),あて(1917・大正6)に,「档」とは能登におけるヒバの方言で,「能登に於て档と称するに至りしは,往昔奥州より此の樹を移植したるに,偶然能州の土質に適し,大に当りしを以てなりと云ふ。」のが語源と記述されており,全てが人工林で,最近は能登ヒバとして宣伝されている。
 なお,能登地方におけるアテについては,これらの書物によれば、
 1) 元祖アテは,奥州鎮守府将軍従四位下武蔵守藤原秀郷の第三子,泉三郎忠衡,奥州平泉より,能登国鳳至郡浦上村字菅原に住み,(1189・文治5)十九世泉兵右衛門(宗雲と号す)二十七歳(1584・天正12)の時,祖先の城跡,奥州唐沢山を弔い,帰途クサマキの苗木五本を持ち帰り,邸内に植えて一小社を建立し,祖先の霊魂を祀りしと云ふ。
   五本のうち二樹のクサマキは,胸高周囲一丈四尺,樹高十五間,樹齢三百年余
 2) 旧藩時代前田卿,南部藩主に対し,クサマキ苗の分与を懇請せしも,聞き入れられざりしを以て,船乗人に命じ,南部より取り来らしめしとの口碑あり。
 3) 金沢藩の名君松雲公,津軽と同一状態の能登へクサマキを移植するため,藩士を農民に変装せしめ,陸奥国津軽方面へ特派して,苗を取り寄せて,能州各郡へ配與せられしとの説もある。
  羽昨郡柏崎村字宿及び字南吉田 胸高周囲七尺乃至八尺樹高十三間
  同郡加茂村字矢駄 胸高周囲九尺,樹高十五六間
 前掲の諸説を総合する時は,档は奥州より渡来したるものなるは,争う可らざる事実なるものの如し。と記述されている。

6) クサマキ
 和漢三才図絵(寺島良庵 1713年・正徳3)の中に、木曽地方の南方型を「アスナロ」,青森地方の北方型を「クサマキ」と区別した記述がされている。
 「あて」(大正6年10月24日・石川県山林会林学博士仁瓶平二・辻敬二共編)においては,青森より送り来るヒバ材は,脂気芬烈なるを以て,加能地方に於ては是れをクサマキ(臭槙)と呼ぶというように樹種として取り扱われているが,林制史料・弘前藩によると,これらの資料よりも早く「諸材木山方沖払直段調」(1675・延宝3年2月15日)に「草槇板」,御材木入付目録(1718享保3年9月18日)には,「草槇」,「杉草槇」,「雑木草槇」として,その他材料目録の中にもヒバの板材の中には「草槇」用語で記述されているものがあり,青森での「クサマキ」用語は,他に先駆けてヒバ以外も含めた一部材として取り扱れていることから,樹種としての用語が適切かどうかは今後の研究課題と思われる。

7) ラカンハク
 泰西本草名蔬(1829年・文政12)の中に記述され,日本植物誌(1842年・天保13)のシートボルトとツッカーニの共同研究には,秦名(中国)として記載されている。
 国有林では,内真部第1・第2事業区施業案説明書(1902年・明治35)に,「…蓋し羅漢柏ハ如何ナル特性ヲ有シ如何ナル用途ニ必要ナルヤ唯材質価格上二三ノ他ノ樹種ニ比シニ廃貶スル能はざるが故ニ茲ニ国家経済上施業案ヲ編成スルト同時ニ青森特有ノ羅漢柏ヲ世ニ紹介セント欲スル所謂ナリ…。」とあり,これが「ヒバ」を「羅漢柏」と呼んでいる始めといわれ,大正期までは造林関係事業用語に「羅漢柏」として漢字記載されているものが多いものの,現在は使用されていない。



(3)ベイヒバと青森ヒバの違い
 
 ベイヒバは,ヒノキ亜科ヒノキ属に属するアメリカヒノキのことで別名イエローシーダーといわれる木です。ヒノキでありながら,日本に輸入されるようになって日本の木にもっともよく似ている「ヒバ」の名をとった商品名「ベイヒバ」とされたといわれております。
 一方,ヒバはヒノキ亜科アスナロ属として,日本特産一属一種のアスナロで古くから俗名「ひば」と呼ばれておりました。日本で80%以上の蓄積を誇る青森県では,古くは「ヒノキ」と呼ばれていましたが,明治以降,アスナロではなく俗名「ヒバ」の名が定着し,現在は「青森ヒバ」として流通しています。

青森県木材協同組合
〒030-0151
青森県青森市大字高田字川瀬104-1
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