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藩政時代〜南部藩


  現在、ヒバ林地帯といわれている下北半島は糠部、北郡(きたのこおり)といわれていた場所で、寛永〜正徳(1624〜1711年)のころまでは、地元住民が自由に山林を利用していたらしく、史的資料もほとんど見当りません。
 しかし、南部藩の制度が逐次確立するにしたがい、従来、放任状態であった伐採行為も次第に規制されるようになってきました。
 正徳2年(1711年)には、ヒバ、スギ、マツ類の伐採を禁止する一方で、無立木地に造林をすすめています(その頃の津軽藩は、既に林政が確立され、寛永年間に山方役を創設し、諸般の職制が策定)。
 南部藩では秣(まぐさ)の採取地を限定したり、藩営の造林を行なったり、また、民間に対しても植林をすすめていました。
 宝歴(1751年)年中に、北部(現在の下北郡と上北郡)に輪伐法を採用し、箇所毎に山奉行を設置し、留山を設定しました(なかでも、田名部ヒバ山については種々の制度が布かれていました)。
 宝歴10年(1760年)には、再び御山制度を改め、角材、柾取の法や、伐採、山出し、横取り等の方法を定められましたが、その後もしばしば藩士を巡視させて、制度の励行徹底を図りました。
 寛政6年(1794年)には、植樹奨励のため部分木の制度を定め、その割合を3官7民としましたが、文化元年(1804年)には、これに改正を加えヒバ、スギの植栽に対しては2官8民にするとともに、その成績の良いものには褒賞を与えたので植林は大きく進み、山林制度もさらに整備されました。



南部藩における青森ヒバの歴史 <(1)職制

  津軽藩の御山所の職制の概要は以下のような形であった。
名称職務内容
勘定奉行 林務を総理した。
山林方 勘定奉行の配下に属して、藩庁で林務に従事した。
 また、国中山林の木数(きかず)を調査し、山林に関する金銭の出納に従事した。
代官 地方一般の事務を司る職務であるが、山奉行の上席に位し、森林の伐採および犯罪等の事務を分担した。
山奉行 地方に勤務し、勘定奉行の指揮下で所管山林の保護取締に従事した。
山守 山奉行の配下に属し、山林の監守に従事した。
植立吟味役 勘定所吏員から選任し、植樹に関する事務を担当した。
職立奉行 造林事業に従事した。
春木奉行 藩用のために伐採すべき薪材、建築用材等の調達を担当し、川除普請奉行を兼務した。
山肝入
山古人
 山林の監視世話役として、村ごとに配置した。
 ただし、山古人は、境界紛争等の臨時の事件が発生した場合に、地元古老の話を聞く必要があったことから、民間から選任した。



南部藩における青森ヒバの歴史 <(2)山林の種類

  山林の種類は、所有形態・利用形態等によって、以下の数種類に区分されていた。
御山
 (藩直轄林)
「総山諸木書上帖」に登載されてある純藩有林。
留山
 (藩有林)
 非常災害に備えて、用材林を仕立てた山。払い下げをしないことはもちろん、平時には藩の用材にも用いずに伐採を禁止した山林。
運上山
 (藩有林)
 田名部代官所部内にあるヒバ林のうち、年々伐採すべき箇所を予定しておき、輪伐法によって15cm角以上のものを継続的に木材業者に特売したり、入札売りをした山。
 下北半島のヒバ林の多くはこれに該当する。
水の目山
 (藩有林)
 水源かん養のため伐採を禁止した山林。
取分林
 (部分林)
 植樹を奨励する方法として、藩有の無立木地に植樹させ、根が付いたことを確かめた上で、分収歩合に応じた「取分証文」を下附した。
 しかし、現実には、植樹する者が少なかったことから、後に分収歩合を改め、ヒバ、スギについては2官8民にするとともに、植樹成績の良いものには褒賞を与えることにした。
御忠信植立山
 (藩有林)
 藩内の篤志家が取分林制度によらずに、藩山に自費植栽した上で、藩庁に献納した山である。
 このような篤志家には、帯刀を許し、紋服を与えるなどして表彰した。
札山
 (藩有林)
 人工林または天然生林で、生育がよく将来立派な林になる山に、とくに「制札」をたてて保護した模範林。
社寺木
 (藩有林)
 神宮、僧侶等が社寺境内に植樹したもの。ただし、自由な伐採は許されず、出願藩許を要した。
高ノ目林
 (私有林)
 田畑が荒廃して耕地とならなくなった箇所について、検地の際に「番外の箇所」として植樹を許し、毎年「坪役銭」と称する藩税を納付させ、私有を許した。
 ただし、伐採については、藩許を必要とした。
居久根林
 (私有地)
 宅地の周囲に植樹させたもの。伐採については、藩許を必要とした。
見守山
 (部分林)
 無立木地に対して人民が自費植栽する、あるいは藩山に自生した稚樹を人民に養護させた山林。
 植栽、または天然稚樹の養護者を見守役に任命し、特別の恩恵を与えていた。
 



南部藩における青森ヒバの歴史 <(3)保護管理のあらまし

 南部藩では下北半島のヒバ林に対して適度の伐採利用をはかるとともに 跡地の更新に対しても積極的であった。津軽藩がヒバの伐採を強度に制限したことと好対照をなしている。
 下北半島のヒバ林に広葉樹を混じた複層林型が多いのはこのためである。

・伐採及び造林
 大規模の伐採及び造林はすべて勘定奉行の裁定によった。
 ヒバ林については208箇所の運上山を8年に割当て、年々伐採する山を予定しておいて輪伐法によって15cm角以上のもののみを払下げた。
 北郡(きたのこうり)内の村々で他によるべき財源のない村には払下山の未木や切株から柾木を採取することを許可した。また部落に大火があったり凶作の年には格安に立木の払下げを許し、別に救助山と称する山も臨時に定めて伐採させ窮状を救ったこともある。
 正徳2年(1712年)ヒバ、スギ、アカマツを造林重要樹種に指定し、無立木地に造林を行なわせ2官、8民の取分林(部分林)とした。

・山林の監守
 最初は北郡(きたのこうり)に足軽4名を配置したが後には北郡34カ村から15名を選挙させ、これに当らせ常に林内を巡視しあるいは伐木に検印を押させた。また、ヒバの藩林は野天を監守に当てた。

・山火の消防
 山火事は市街家屋の火災と同視して、藩私有の区別なく附近総出動させ費用は出火村方持ちとすることもあったし、出張村方の失費としたこともあった。天保10年(1839年)北北郡畑のヒバ林が4昼夜焼け続けたときの費用は数千金に達したといわれている。

・森林犯罪の処罰
 払下木以外に過伐したときは、その材木の全部を没収したうえ科料に処し、あるいは領外に追放した。盗伐に対して入牢のうえ軽い追放処分とし盗品は全部没収、情状によっては重い科料に処したうえ、親族預けとすることもあった。私山の盗伐は盗品を山主に返させ、伐採跡地の植継ぎをなさしめ、あるいは、損失を補償させた後入牢、または自宅禁錮に処した。
 


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