藩政時代以前の記録はあまりありませんが、藩祖津軽為信公が津軽地方を統一するまでは、地方民の必要に応じて自由に林産物が伐採されていたようです。
為信公によって、津軽地方が統轄され、藩の諸制度が確立されるにしたがって、藩の財源が必要となりましたが、当時、津軽地方の産物としては津軽平野から産出する米と、山々から生産する木材(主としてヒバ材)が主たるものでした。
このため、藩の財政を確立するためには、山林に関する諸制度を整備することが必要となり、林政の方針は次第に整ってきました。
津軽藩の林政の特長は 青木(ヒバのこと)の保護を厳重にしたことで「青木1本に首1つ」と言い伝えられており、また、青木は全て藩主のものとして、民家の建築用材の使用も許さなかった時代もあったほどでした。
その反面、広葉樹は、ほとんど民の自由に委ね、伐採を認めてきました。
津軽半島のヒバ林が、老令一斉林の形となっているのはこのためです。
天正13年(1585年)には、藩から林業奨励に関する藩令が発せられました。その方針は、「制度を厳正にして、地元民により植栽と保護に当らせるとともに、その恩恵を住民に還元する」という、国利民福を図ることをねらいとしたものでした。
二代藩主信政公も 林政に意を注ぎ「我に大事と思うものが三つある。第一に家運、第二に土佐守、第三に山である。山の用は挙げて数えがたい。後世に至っても、上下共に能く心を山林に用いねばならぬ」とのべていますが、これをみても、いかに山林に注目していたかを伺うことができます。
その後、天和、貞亨の年代(1681〜1687年)になって、田畑山林に関する諸制度も徐々に確立し、成果が向上してきました。
さらに、正徳年間(1711〜1715年)になってから、「山方役所」を設けて、山林について重点的に職務を担当させ、植林を奨励し、その成功をはかるために種々の施策を行なったことが記録に残っています。
(1)職制
(2)山林の種類
(3)保護管理のあらまし
名称 | 人数 | 職務内容 |
山奉行 | 2〜3名 | 山林の事務を総轄 |
山方吟味役 | 4〜5名 | 「勘定奉行」、「山奉行」の配下となり、「山方役所」の出納を所掌するとともに、「山奉行」を輔佐して山林事務一切の事を司った。 |
山方取締り | 10名 | 保護伐木を司った。 |
山方物書 | 2名 | 山奉行の書記を勤めた。 |
山役人 | 60〜69名 | 山奉行、山方吟味役の指揮を受け、森林を監視するとともに、直営の伐採を司った。 |
諸木仕立方取扱 | 2〜4名 | 山奉行の指揮を受け、春秋2回造林地を監督した。 |
手付 | 18名 | 「諸木仕立方」の指揮を受け、造林人夫を使役し、時には自ら鍬を取って植林の範を示した。 |
十歩1役 | 5人1組で専ら木材の流送を司った。 | |
大山頭 | 目屋の沢山:2名 浅瀬石山:1名 | 受持山の取締りを行なった。 |
郡方 | 総代のようなもので、一般行政上のことと併せて森林事務にも参与した。 |
御本山 (藩有林) | 「御手山」とも呼ばれる純然たる藩有山。従来、山方役所の主管であったが、安永8年(1779年)以降は、山方、郡方の両支配に属し、保護監守は 地元民に委任し、時には山役人を派遣して実況を検査させた。 盗伐は村民の連帯責任制をとり厳罰に処したが、反面、その保護の労に報いるための代償として、副産物および薪材等を自由に採取させた。 御本山は伐採制度を「留山(とめやま)」と「明山(あけやま)」に区分した。留山は収穫の保続を期するため地元住民の入山を禁止した山で、「明山」は入山を許可し、伐採を行なうことができた山である。 |
見継山 | 元和年代(1681〜1683年)に民間において私唱した名称。 藩山の伐採跡地に植栽、または天然に生育した林を、山麓の住民(1人または1村若しくは数ケ村)に保護監守を命じ、その報として将来森林経営上の支障とならない限度において自家用材の有償払下げ、その他副産物の無料採取等を許可した山である。 |
仕立見継山 | 見継山と異なり、民間より藩山伐跡地または空地に自費植栽を請願のうえ、藩庁の許可を得て植栽し、その成林検査を受けたうえで、「仕立見継山証文」を下附された山である。 売買譲与は原則的に禁止されたが、自家用材はもちろん、販売用の立木は藩庁の許可を得れば無償で伐採することができた。 なお林相保持(保続)の点に留意し、過伐による林地の荒廃を防止した。もし禿山となった場合は、証文を取りあげ、関係した住民には再び植栽することを許可しなかった。 |
抱山 | 天和2年(1682年)に創設されたもので、その証文は藩庁から抱山主に下付された。売買譲与は自由に行なわれたが、伐採する場合は、藩庁の許可を要した。 また、伐採樹種によって苗木の本数が異なるが、必ず植栽させて林相保持に努めた。また藩用として伐木した場合は原則として時価によって買い上げた。 |
舘山 | 舘山は連山または立山とも呼ばれ、この成立には諸説があるがある。ここでは、2つの説を例示する。 なお、現在の屏風山はこれらの舘山と称された藩山に該当する西北日本海の飛砂防備林で、藩主信政公が天和2年(1682年)に植栽計画を樹て、その後、藩庁の保護の下に地方住民が自費植栽した山であった。 説1:「仕立見継山と同じ」説 藩山等に植栽させたが、土地の所有権は認めなかった。 その成立は寛政年代(1789〜1800年)に、各郡村に在住していた津軽藩士が植栽保護していた山林を、弘前へ移住の際に地元の住民に譲与したものと言われている。 説2:「禁伐林」説 弘前城の南北部、および木造地方に存在したもので、軍備のため保護育成された禁伐林。 |
田山 (官地民木林) | 「水源山」とも呼ばれ、水源かん養のために、地元住民が自費植栽した山であった。禁伐林であったが、風倒木、枯損木の利用は藩許を得て認められていた。 |
試植林 | 荒廃地や空き地に、藩庁の許可を得て村民が植栽した林で、試仕立山(しめししたてやま)ともよばれた。 この山林は、本来藩庁の検査を受けて仕立見継山または抱山となる性質のものであったが、明治維新に際して、これらの検査を受けなくてもすんだため、その宮地民木の実績を尊重して部分林として処埋された。 なお別に「新任立山」があるが、これは仕立見継山を伐採後さらに造林して検査を受けるまでの期間の山をいう。 |
漆仕立山 | 古来より津軽は漆器の生産地として有名な地方であるが、原料となるウルシ採取のために、特に、漆奉行を置いてウルシ立木の造林を奨励した。 この漆山は藩山に人民が自費植栽したもので、成木したときは、仕立見継山や抱山等と同じように漆山証文が藩庁から下付された。収穫した漆樹および漆実は、藩庁に全部収納し、二官八民の割合をもって代金が支払われた。 |
津軽藩における青森ヒバの歴史 <(3)保護管理のあらまし
以上のように山の成立から考えると、御本山を除く抱山、見継山等の地籍は藩有に属していたが、利用収益の面では人民に不自由のない制度をとってきたものといえる。御本山の保護は山下村民の遅滞責任とし、一山ごとに村請を定め、小沢ごとに沢預り、五軒組を組織し、常時看守させ、盗伐火災を防禦し、また各地の要所要所に番所を設け山方役人を派遣してこれの監視に当らせ、春秋2回山奉行以下総山を巡回し、これを監督した。
火災防止のため毎年雪消えを待って 各村の小沢預入が担当区域周囲の枯草を焼き払い(これを岸焼きと言った)山方役人の検査を受け、若し火災が発生したときは受持村民総出で消火し、近隣の村々も相互に援助した。立木を焼失したときは山村人民に焼木1本に対し苗木10本づつ植継ぎさせた。
盗伐の犯人が判明すれば、その程度によって色々の刑罰を加え厳重な制裁をした。軽いものは鞭打ち重いものは斬罰に処したが、盗伐の犯人が不明のときはその山下組を科料または鞭刑に処し伐採木は全部取上げ戸締りを仰付ける等(入林禁止のこと)山下全部の責任とした。
凶作によって山林を多量に伐採したときは荒廃のおそれのある山々に限り数年間留山とし入林を禁止した。 御本山におけるヒバ、スギの伐採はすべて藩の直営とし、10年または15年を1期とし、1山を3年計画で伐採する順序を定めた。利用本意の伐採で、当年は柾、木舞を採り、2年目は建築材を採り、3年目はその未木を採って終るようにした。末木は3番未木まで採材しそれ以下のものは地元民に与えて盗伐を防いだ。現在も津軽の一部の地方に「未木取り」という言葉が残っているがこの名残りであろう。
ヒバ、スギを伐採した者には苗木を10本その跡地に植栽させた。また、雑木を伐採した者に対してはスギ苗5本を植えさせた。
ヒバ、スギ、マツ、ツキ、エンジュ、ヤマウルシ、カツラ、クワ、キリ、カシワ、セン等の樹種は、藩、民の別なく許可なく伐採することを禁じた。
薪材にする雑木は輪伐法によって伐採し、藩用ならびに士族用を除いた残りは地払いとし民間の利用に供した。
民間の自家用材の分は山下村民の出願によって最寄りの山林から伐採することを許可した。 根、柴、枯枝の類は山下村民に随意に採取させた。現在の副産物に相当する蕗、筍、わらびの類は山下村民に限らず随意に採取を認めていた。
以上をさらに要約すると、正徳年間に創設された山方役所は主として藩有御本山の管理に当った。また、安永8年には一般森林管理を山方郡方の支配とし、民心の緩和を図るとともに森林の保護の円満を期した。この両制度は廃藩当時まで実施された。天明3年の大凶作には森林を伐採して生計をたてるほか途がなかったため濫伐過伐が相ついで起こり林政の基礎をあやうくしようとした。そのため、寛政、享和の年間に至り、山林の大調査を行ない、林簿、林籍を整理した。これは亨和帖といわれている。